【薩長同盟の立役者】
大久保 利道 【薩摩】
1830〜1878
明治維新の指導者。島津久光のもとで公武合体運動を推進しました。やがて討幕へと転じ、薩長同盟を成立させる一方、岩倉具視らと結んで慶応3年(1867)12月、王政復古のクーデターを敢行しました。版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固めました。
西郷 隆盛 【薩摩】
1828〜1877
明治維新の指導者。薩摩藩主島津斉彬に取り立てられました。安政の大獄と斉彬の死を契機に入水自殺を図り、その後、公武合体を目指す島津久光のもとで活躍するも、久光と衝突し、配流しました。召還後、第1次長州征伐では幕府側の参謀として活躍しました。以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本龍馬の仲介で長州の木戸孝允と薩長同盟を結びました。
坂本 龍馬 【土佐】
1835〜1867
父は土佐藩の郷士。嘉永6年(1853)江戸の北辰一刀流千葉定吉に師事、剣士として知られています。文久元年(1861)武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加しました。同2年脱藩して江戸へ出、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所建設に尽力しました。慶応元年(1865)長崎の亀山に社中(のちの海援隊)を開きました。薩長同盟締結に努力しました。
中岡 慎太郎 【土佐】
1838〜1867
父は大庄屋役勤仕。文久元年(1861)武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加しました。同3年土佐勤王党が弾圧されると脱藩して長州に行き、土佐藩士の中心となって活動、坂本龍馬と協力して薩長同盟締結に尽力しました。同3年(1867)陸援隊を組織して隊長となりました。以後武力討幕を目指し活動していたが、大政奉還後の3年11月坂本龍馬と共に京都で暗殺されました。
木戸 孝允 【長州】
1833〜1877
父は長州(萩)藩の藩医。吉田松陰に師事。のち江戸で剣術、西洋兵学を学びました。公武合体派に反対し、尊皇攘夷運動に奔走しました。藩の重職に就き、藩論を討幕へと導きました。慶応2年(1866)薩摩藩との間に薩長同盟を締結しました。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草。参与に任ぜられ、版籍奉還の実現に尽力しました。
楫取 素彦(小田村伊之助) 【長州】
1829~1912
萩藩医松島瑞璠の次男として萩に生まれ、初め伊之助と称しました。藩校明倫館で教授し、のち吉田松陰の妹寿と結婚して、松下村塾でも指導にあたりました。慶応元年(1865)には、九州に逃れていた三条実美ら5人の公卿を藩主の命で訪ね、その際、坂本龍馬と知り合い、木戸孝允に龍馬と会う事を勧める手紙を書き、そのことが薩長同盟実現に繋がりました。
【山口出身の志士】
野村 素介
1842~1927
吉敷郡長野村(山口市大内長野)出身。1866(慶応2)年、家督を継ぎ、藩主毛利敬親の側近として活躍。維新後は茨城県知事・元老院議官などを歴任した。能書家としても広く知られ、多くの書を残している。
井上 馨
1835~1915
吉敷郡湯田村(山口市湯田温泉)出身。1863(文久3)年、山尾庸三らとともにイギリスに渡航。維新後は明治政府に出仕し、外務・臨時総理・大蔵大臣など要職を歴任。経済界においても強大な発言権を持った。
杉孫七郎
1835~1920
吉敷郡御堀村(山口市大内御堀)出身。1861(文久元)年、幕府の遣欧使節団に随行し西欧諸国を視察。維新後は主に宮中で活躍。ユーモア溢れる好人物で、多くの人から慕われた。能書家としても広く知られている。
山尾庸三
1837~1917
吉敷郡二島村(山口市秋穂二島)出身。1863(文久3)年、井上馨らとともにイギリスに渡航。維新後は明治政府に出仕。東京大学工学部の前身である工学寮の設立を提唱するなど、近代工業の確立に尽力した。
大村益次郎
1824~1869
吉敷郡鋳銭司村(山口市鋳銭司)出身。1846(弘化3)年、大阪の緒方洪庵の適塾に入門、後に塾頭となる。優れた兵学者としても知られ、四境戦争や戊辰戦争では指揮官として活躍した。酒と豆腐をこよなく愛した。
福田侠平
1829~1868
吉敷郡山口町後河原(山口市後河原)出身。1863(文久3)年、奇兵隊に入隊。後に参謀・軍監(副将)へと累進。若き隊士からの信頼も厚かった。没後は東行庵に葬られたが、有志により大内御堀にも墓が建てられた。
【山口ゆかりの志士たち】
高杉晋作
1839~1867
1863(文久3)年6月、山口政事堂で藩主に対し奇兵隊創設案を建言した。1866(慶応2)年、家族のために白石に自宅を建築しようとしたが完成を見ることなく没した。鰐石町や江良下竪小路に住んでいた時期もあった。
井上 勝
1843~1910
1863(文久3)年、井上馨らとともにイギリスに渡航、鉱山学や鉄道の実業を学んだ。1868(明治元)年、明治政府に出仕し、鉄道頭となり、各地の鉄道敷設を指揮した。旧宅は下小鯖稔畑にあったと伝えられている。
木戸孝允
1833~1877
維新三傑のひとり。1867(慶応3)年9月から10月にかけ、枕流亭や湯田温泉の旅館松田屋で薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らと討幕について協議した。糸米にあった自宅と山林は臨終にあたり村民に寄付された。
伊藤博文
1841~1909
1863(文久3)年、井上馨らとともにイギリスに渡航。翌1864(元治元)年帰国の際には下竪小路の十朋亭に寄宿した。1885(明治18)年、内閣制度が発足するや初代内閣総理大臣に就任、国政に尽くした。
周布政之助
1823~1864
井上馨や高杉晋作ら若手の良き理解者。禁門の変・長州征伐・下関戦争と相次ぐ情勢の悪化により追い込まれ、1864(元治元)年9月、吉富簡一宅で自刃。遺言により石州街道沿いに墓が建てられた。杉孫七郎は甥。
久坂玄瑞
1840~1864
松下村塾では高杉晋作と並び双璧と称され、吉田松陰から防長年少第一流と絶賛された。1864(元治元)年7月、禁門の変で敗れ、鷹司邸で自刃した。十朋亭を離れとする萬代家には、常用の湯飲み茶碗が保管されていた。
山田顕義
1844~1892
松下村塾出身。幕末には久坂玄瑞らとともに尊王攘夷運動に奔走した。維新後は初代司法大臣に就任。その後は日本大学や國學院大學の前身を設立し教育にも尽力した。旧宅は白石と中央にあった。妻、龍子は湯田温泉の旅館瓦屋の娘である。
堀真五郎
1838~1913
1863(文久3)年4月、高杉晋作とともに京都より帰藩。その後、高杉の奇兵隊結成に呼応し、八幡馬場で八幡隊を結成、総督となる。維新後は裁判所に出仕し、1890(明治23)年には大審院判事に昇進した。